文章(2021年)

 

 

 

原田 正有(はらだ まさとも) 1968921日 奈良に生まれる。

 

母はやや美術よりの関係ある仕事を携わっていたものの、父は電気関係の会社員といったごく一般の家庭に生まれ育った。物心着いた頃には何かにつけ絵を描く環境は身近にあり身の回りの物や人を描いていた。小学生になり一般教育の写生会で地元の奈良の寺院や近代建造物を描き、先生方の間で評判の声や、校内外でも作品が展示される機会が増えるにつれ自分の中に「絵画」という意識が芽生えて行った。

 

本格的に美術の勉強を始めたのは高校2年頃というやや遅いスタートだった。中高共、地元の進学校で、周りには美大受験生はおらず何の基盤も無い無謀ともいえるスタートであったが、一人で地元の芸大出身の先生のもと、石膏デッサンや基礎的な勉強を始めた。無我無中で描き続けた。

 

初めての東京芸大受験の失敗後、東京へ出て池袋の芸大受験予備校へ入り、同世代の若い受験生に揉まれながら、絵画の勉強に邁進した。とにかく描くことが楽しく、真剣に悩み、考え、若さにまかせて描きまくったのを覚えている。結局4年の長い浪人生活を送る事になったが、22歳の時、実父の2年間のドイツ駐在に伴い、初めてのヨーロッパ生活が始まる。当時のドイツは、ベルリンの壁が崩壊し東西が統一された直後であったが、これからの国あり方に期待と不安が全体に満ちていた。ドイツ語はおろか英語も話せないもどかしさの中、ドイツの美術館や芸術大学を観て廻った。日本とは比べ物にならないヨーロッパ美術の作品コレクションやスケールの大きい大学のあり方にただ驚くばかりだった。当時滞在していたデュッセルドルフには、世界でも有数の名門芸大デュッセルドルフ芸術アカデミーがあり、学生達の作品を観てその技術や質、レベルの高さに圧倒された。入学試験もまるで制度が違い日本の芸、美大受験に必要な技術や完成度を重んじる教育ではなく、美術に対する考え方や可能性を試される傾向が強く、自分が今まで培ってきたものは一切通用しなかった。23歳の時、今まで描いた作品写真や資料を持って、当時世界的に有名になりつつあったゲルハルト・リヒターに作品を観てもらった。「君は沢山絵を描くね。でも制作に不安は無いのか」彼の言葉だった。そしてドイツでの独り暮らしが始まる。それからもまるで評価されない時期が続き、まさに絶望ばかりだった。ドイツ語学校を卒業し、25歳を迎えようやく本腰を入れて作品と向かい合うことが出来、翌年1000人を超える受験生の中から、デュッセルドルフ芸術アカデミーへの入学を許可された。まず全科共通の基礎課程を1年終えクラス進級試験があり、オランダの現代美術の巨匠、ヤン、ディベッツ教授のクラスに決まった。「私があなたを生徒として取る」と言われた時、教授に抱きつき皆の前で泣いた。しかし進級出来た喜びもつかの間で、再び愕然とした。「何を描いたらいいのか?」長い競争と受験生活を終えたものの生涯を掛けて取り組む内容がまるで分からなかった。クラスの学生達は、ミニマル、インスタレーション、幾何学抽象、油彩画など、皆それぞれの興味のある方向性を求める特徴があった。「ここでは真似をしていても駄目だ。君のアカデミズムはもう十分分かった。それよりも君の生まれた国の文化や精神を大切に、決して日本人である事を忘れるな。」教授の意見だった。一旦描くことを辞め、当時の自分にはやや高価なキャノンの一眼レフカメラを買い、真っ白な状態であちこち撮影取材を始める。日本に帰り奈良の風景、吉野山、室生寺、大台ケ原、高野山、和歌山三段壁、数々の美しい景色を撮った。ドイツに戻り新たなゼメスター(学期)が始まり、目の前が少し明るくなるのを感じた。その頃から写真や取材した資料を元に描き出した。ヨーロッパには無い日本の風景、情緒、陰影、湿度、全てが新鮮だった。的確な教授のアドバイスもあり、当時は現代色の強いドイツの芸大ではあまり取り組まれていなかった「風景画」を中心に、今までとはまた違った観点で過去からの素晴らしいヨーロッパの風景画を観、勉強する事になった。オランダ出身の教授からは、風景画家のフランツ、ポストや、ヤコブ、ファンロイスダールを紹介された。アムステルダムや、デン・ハーグを始めデンマークや各土地の油彩画、風景画を観て廻った。どれも素晴らしいものだった。やがて興味の対象が北斎、雪舟、伊藤若冲、長谷川等伯といった、日本の画家に移る。日本には西洋の巨匠に決して引けを取らないむしろ先駆者ともいえる才能があった事を再認識した。やがて2021世紀を生きる自分が、この作家達に負けない何かを創りたい、と願うようになった。1997年、手探りの状態で後に「風の音」というタイトルを付け、20代最後の代表作になる吉野の風景を描いた。翌年大学で年に一度開かれる、全学生発表会(ルンドガング)に出品した。

 

一般客をはじめコレクターやギャラリスト、キュレーターが世界中から観覧に来る事もあって全学生皆、決死の自作を発表する大事な機会だった。教授の指示により当時の学生には珍しく一部屋を任せられた。開館前日に10名程の教授で構成される選考委員会が各部屋を廻りその年の優秀作品を選出する。自分の展示室に入った時の教授達のざわめきを今でも覚えている。そして受賞し大学から研修奨学金を渡され、ボストン、ニューヨークを訪れた。ボストン美術館で北斎やピカソの特別展、ニューヨークではピカソ後期の大展覧会や世界中からの美術コレクションを観、触れる事ができた。大学へ戻り、デリュッセルドルフ市内のギャラリーで初めての個展を経験し、2000年マイスターの称号を修得し卒業した。大学では自ら求めて行かなければ何も得られない事を知り、現代色の強い大学であったが、「たとえ過去の遺産であっても常に新しい」という大切な事を学んだ。卒業と同時にドイツ、フランスを中心に開催される公募展に応募した。審査員には、前年度のドクメンタを企画したカタリーナ・デイビット(パリ国立美術館)、ベルリンやミュンヘン、ドイツ国内の大手美術館館長が名を連ねていた。受賞者には当時の最も高額な賞金と、全国40箇所の巡回展覧会が開催される。一次スライド審査の合格通知が届き、デュッセルドルフのアトリエから2作品をスプレンゲル美術館(ハノーバー)に送り、最終審査を通過した10名の受賞者通知が届いた。ハノーバーの会場で開かれた受賞者展覧会と、「若手現代作家の10名」と書かれたセレモニーのステージ立った時の光景やフラッシュは一生忘れられないものだった。そして今まで自分が歩んできた「表現」の世界に自信を持つことが出来た。それから後、15年近く、ドイツを中心にプロとしての活動が始まる。ビザの審査は何とか通過することが出来たが、作品の売れない苦難の時期や2度の湾岸戦争を始め、決して楽ではなかったドイツ在住生活だったが、絵を描くことを生活の中心に過ごし、教室を開き、友人や生徒に囲まれ、楽しい思い出も数多く、素晴らしい23年間だった。40代も半ばを過ぎ、2014年いよいよ本帰国の時が来た。これから日本での生活や、発表が始まる。ドイツで培った知識や経験を大切にまた日本という環境で様々な事を学び消化し、末永く発表していきたいと思う。

 

 

 

 

 

風景 - 風の音、光の行方

光に包まれて道を歩く。そこには果てしなく雄大な草原が広がっている。見え隠れする太陽の様を感じながら心地よい風に吹かれて歩いていると自分の身体でさえ風の一部になったような感覚を抱く。ここは何処であろうか、静かに目を閉じたら赤く瞼を染め透かす光に包まれて一歩ずつ前へと進んでいた足がふと止まる。目を開けば再び現実に広がる景色の中で自分が生きている事に気づかされる。遠くの方から静かに音が聞こえてくる。音楽ではない、自然の醸し出す肌を撫でるような草木のざわめきと風の音が交差しあい音のハーモニーを醸し出している。人間の持つ深い心理の中から独自の記憶が呼び覚まされ、形を持たない過去の記憶の断片が浮かび上がる。雲は常に躍動し、その変貌する様を眺めていると、形造る事の出来ない過去の記憶が見え隠れするようにその姿を現しては消える。ゆっくりと再び歩くことを決意するとそこには道はない。何処へ向かっているのだろうか、果てしないゴールに向かって行く道はけれど必ず何処かへ繋がっている。微かに光る雲の先を見てみたい。風の音を感じ、柔らかな光の中で進んでいく。静かに時は流れやがて夜を迎え朝が来る。そしてまた進んで行く。見えないその先を見る為に。

                                                 2017年 原田 正有

原田 正有 (文章)  2005年筆

 

「文章を書く」という事は、絵を描くといった事とは又違って、重要な事である。
普段、頭の中でモヤモヤしている要素や、思いついたアイデアなどを、より具体的に定着させると同時に、改めて自己に向かわされるような作業とも言える。
展覧会を行う時、限られたスペースと時間の中で作品のみを通じ第三者に全メッセージを
伝える事が出来るならば、それは一つの理想なのかもしれないが、平行して文章や解説等を添える事によりより一層制作についての態度、考え方、お互いの理解を深める事が出来る。より現代美術においては解説や評論(クリティック)が不可欠になる。
「文章」という形に置き換える事によって又自分自身の今の姿を垣間見る事にもなり、面白くもありかつ緊張感すら覚える事がある。

20代前半にドイツに渡り、14年を経た現在、10代では思ってもいなかったヨーロッパ定住も現実になってしまえば10年という時間の瞬く間の早さを感じる。
ヨーロッパの文化、教育のあり方、社会の構造を自らの眼で見、素直な感想や意見が、何かの参考やきっかけになれば幸いである。

 

「何故絵を描くのか」又は、「何故絵を始めたか」という質問を過去幾度となく受けた事がある。大学入試の際に、教授側からこういった根本的な質問を投げかけられる事もあろうが、大学に入学し、卒業、プロとして仕事をこなして行くに従って作画する事が前提条件のようになってくるので、このような質問は少なくなってくる。
学生時代、おそらく全ての学生達が将来への希望と不安を抱いているであろう中、「何故」という問いかけはむしろ自分に課せられた質問なのかもしれない。若い葛藤の日々は振り返ってみると懐かしく思える事もある。
「何故始めたか」という問いかけに対しては外の多くの同業者がそうでろう子供の頃から絵を観、描く事に興味を持ち、何かの機会があれば絵を描いていた。
しかし子供の頃、いかに興味があり、作品造り等に関っていたとしても、将来作家になる事とはまた別問題で、又子供の頃描かれた作品を観て、その子供の将来を確定する事は至難の業とも言える。
世界的な作家達、例えばジャコメッティや、ワイエス、デュシャン等、両親、兄弟共優れた芸術家であるケースも見れば、先天的な要素も大事な事なのかもしれない。
私個人の考えでは、むしろ環境的な要素が将来を大きく左右すると思うが、根源的な「才能」という要素はやはり先天的なもので美術や音楽の分野ではより顕著に現れてくる。
「英才教育」について考えてみた場合、日本、ヨーロッパ問わず、英才教育の重要さは様々な方面から語られている。勿論スポーツの分野であってもしかりであろうが、残念ながら親の多大な期待を受けても将来大きく花開く割合はむしろ英才教育を受けていない中のパーセンテージと余り変わらないと思っている。
人生経験や、後天的な要素が次に問題になってくるのであろうが、例えドラマチックな人生を歩んだにしても素晴らしい物を表現出来る事とはまた別問題である。

 

さて、今現在活躍している美術家や作家の中で10代以前にその分野に精通していた人材はどの程度いるのであろうか。
絶対音感や聴音、微妙な音の差異を聴き分けられる教育を受けた音楽家に比べ、美術家に要求される要素は極めて抽象的である。色感やスタイル、表現に必要な要素はむしろ教育する事自体が困難であり、ドイツにて過去行われた実験的教育システムも今や皆無に等しいと思っている。
半面、デッサンやより技術的な要素は比較的教育の手段が成立しやすい。
幼少の頃からスパルタ教育する程の事では無いと思うのだが、過去ヨーロッパにおいては、画家という職業自体がより職人に近く、いわゆる画工師という事なのであろうが、より正確に絵の具を調合し、支持体に肖像がを再現し、また宗教的なシーンをよりリアルに又ダイナミックに描く技術や、風景の温度、湿度やオランダの密な空気までも再現する技術を身につけるにはやはり幼少からの修行や、長年を掛けた熟練した技術も重要になろう事を思えば、よりスタートは早いに越した事はない。

明らかに写真が生まれてから絵画の持つ重要な「再現」という要素は大きく揺れ動いた。
結局、買い手が少なくなればそれに携わる職人達も少なくなる訳で、今現在ヨーロッパではより限られた場所でのみ、こういった伝統的な教育が行われている。
世界大戦によって多くの物が破壊されたドイツにおいてはむしろより新しい物に対する興味が高く、20校近いドイツの芸大でもより新しい物に対する教育が行われている。
結局大学を卒業しても作品の扱い手が満足に得られなければ維持する事自体困難になってくるのも事実であり厳しい選択を迫られる事になってくる。

日本においては、子供達に対する美術教室もふんだんにあり、美術系の大学へ進学するに当たっての教育施設(いわゆる予備校)もある。又、両親のいずれかが多少美術に関る人材であるならば幼少より美術教育に関れる機会のあるケースも多い。
将来大作家になるのは並大抵の事ではなくてもほんの少しでも手先に身に付いた技術や経験はその人の生涯においてより多くの物をもたらす事にもなり、かけがえのない財産とも
なろう。

さて、自分自身、美術の道に進む事を決意したのはやはり大学受験を前にでの事であったが、これは多くの日本人同業者同様である。
プロとして、10年も経ってしまえばどのような経歴を辿って来たかは余り話にも出なくなってくるが、人生の中で大きな決断の時期はやはりあるようである一定の期間を逃がしてしまうと中々取り返せない状態もある。
日本の大学の受験制度とドイツの芸大の受験制度は明らかにシステムが違うが、兵役を終えた20代前半の若者が1,2年を費やし受験準備を行う。
またそれに当っていわゆる予備校のようなシステムは少なく余りそれ自体も成り立たないようである。具体的に言えば、各自用意したデッサンやスケッチなど20数枚を揃えた書類鞄を用意するのであるが、予め各自教授を訪ね、作品を通じてコンタクトを作り、試験に臨む制度は、いわば日本の受験において数日の作品造りとは質を異にしている。

さて日本の美大受験システムの中で培われる要素はまた一種独特で、おそらく大学進学と同時にそれを放棄する者も出て来るのであろうが若い日は欧米の最先端アートシーンに心揺り動かされるのは当然の事であり又若さの特権ともいえる。
又一度放棄した技術であっても数年後再現する事に難を示さない事も多く、やはり早い時期に覚え込んだ内容は将来的にも決して無駄になる事はないと思っている。
ここドイツにはそれに相当する教育制度は今や無いに等しいことは先に述べたが、50倍近い倍率を突破して合格してきた学生達は、その時点では初心者に近い。
ではその大きな選択を任されている試験管達は何を見るのであろうか。
試験管は勿論選ばれた教授達なのであるが、デュッセルドルフアカデミー学長のマーカスリュペルツ教授は、彼が才能を認めた者を引き上げることを雑誌のインタビューで述べている。又自分の元に何かのモティべーションを求めに来る学生に対しては早い内に別の安全な進路を選ぶ事を要求するとも述べている。
一般教科やセンター試験と違って、美術の審査になる要素は幾分抽象的な物であろう。
まして同じテーマやモチーフ描写が要求される訳ではないし、オリジナリティーという事で言えばその範囲は膨大なものになる。

決定になるのは「何か」を見出せるか否かに掛かっている。その何かとは、個人の持っている可能性、表現の「核」、「原石」のような物をそこに見出せるかと言う事ではないかと思っている。
年に約50名近く難関を突破し合格した生徒達は一年間「基礎過程」の様なクラスにまとめて入り、どんなジャンルの卵達もみな一緒に制作する時間が設けられている。

ある意味でこの一年間は、より自分の興味ある方向や各自のやりたい内容を煮詰める時間とも言えるが、厳しく言えば入学試験結果が正当なものであったかという事を審査員の前で試される時間ともいえる。一年を経て進級試験を終えると、各自様々な教授のクラスに入る事になる。また大事な事は入学してくる若い学生達はその時点では全くの初心者であっても、2~3年後にはまるで見違えるように本格的になっていく事である。
その中からも途中で学業を中断する者もいれば卒業まで到達しない者も多く、いかに審査員の眼が確かであってもやはり生徒達の将来を見抜く事は難しいようである。年間40名近い学生が大学を卒業しても将来長く作品を発表し続ける人材はまた限られていて、僅か5パーセントの学生達がプロとして通用することは異口同音に語られている。
では残りの95パーセントの人材はというと、勿論全く断念する者もいるであろうが、それぞれまた違った収入源を持ちつつ生涯を通じてアートと関る事になる。
またそういった、半プロ的人材をサポートするバックグラウンドがむしろヨーロッパにはある気がしている。具体的にいえば国民の文化、美術に対する認識もあるのであろうが、
例え成功を見ぬ作家達も、細く長く美術に関り、また発表する機会も本人の意欲次第で与えられているようである。

音楽、美術、問わず、国の文化を保ち、また支えているのはこの莫大な数の人材とアマチュア達ではないだろうか。ほんの僅かな、0.1~2パーセントのスーパースターもこのピラミッドの頂点に居るのであって、それを生み出し、また支えている見えない土壌のあり様
を認めざるを得ない。また厳しい観点で見れば大半の作家達が土壌になるのであり、成功を見ない作家の人生は決して楽なものではなく、それだけに美術の道に進もうとする若者
を見極める審査も大事かつ大変な作業になってくる。
年間ドイツ全体で1ダース近くある美術大学に、何千という受験生が訪れる。その中でも以後何年も学生を育てていく環境を用意できるのはやはり数限られている。

 

「何故絵を描くか」という問いはおそらく一生続くであろう作業についての理由を問われているのであり、また一生掛かって解答する事が出来ると思っている。
誰でもそこに惹かれる「何か」を見出しその世界に入る。
「どれだけ好きか」という事にもなってくるが、ある見えない何かを求めて長い長いレールのスタートに立つ。果ては報われる事の無い努力の積み重ねが始まる。
「好き」であるか否かはこれから始まる長い長い試練と、時に苦行ともいえる作業に付いて自分がどれだけ愛せるかという事である。
「楽しい」という観点は成立しない。自分の言葉に置き換えれば「面白い」のだ。
造り出す事によって言葉では言い尽くせない何かが満たされるとも言える。

「原風景」という言葉を使えば、自分が幼少の頃描き忘れてしまっていたスケッチブックを見付け愕然とする。今と同じ物を描いているのだ。
根底に流れている記憶や体験は長い年月を経て蘇る。
多くの同輩達も懸命に作品に取り組み、晩年に近ずくにつれそれぞれ各自の「原風景」に近ずくのではないか。育ってきた環境や後天的な要素はやはり重要な事である。

 

「日本の美術シーン」に付いて考えてみる。まだまだ将来未知であり、発展の可能性を秘めている。ドイツに渡る以前の15年前の美術シーンからすれば、舞台は東京、関西として、
やはり大きな変化を認めざるを得ない。以前、例え東京であったにせよ、欧米の美術作品に触れる機会はまだまだ満足に無かった。つまり画集や雑誌、大手美術館の特別展でのみ限られたオリジナル作品に触れる事が出来、始めて海外の美術館を訪れた時の感動を今でも覚えている。
より多くの作家、学芸員問わず、美術方面の若者が欧米に留学の機会を得、見、学んだ要素を母国に帰ってから生かそうとする。世界全体の美術シーンが変化していくのはやはり当然の事で、必然的に日本での美術のあり方も変化していく。先にも述べたがその時代の最先端の文化を吸収するのは若者の特権であり、まして他の、おそらくどの国の人間より、素早く、正確にそれを消化する。一つの分野を研究し、模倣し消化していく速度に関しては日本人は素晴らしい物を持っている。勿論日本人のみならず韓国、そしてこれからは巨大な中国でもしかりであるが。ただ、何か一つのテーマを長年掛けて熟成していくようなゆったりした時間の蓄積みたいなものはまた別問題として残る。

「日本の美術シーン」に付いて話を戻すならば、例え欧米とは質を異にしていても、明治以後から現代に至るまでも、熱意ある作家達がやはり素晴らしい物を創り出して来たと思っている。

「現代美術とは何か」という最も近くて難しい問いに対する答えは様々で、また限られた一種独特な響きを持っている。「現代の美術」とすればより定義される物が広範囲になるのであろうが、今では多少死語のようになってしまった「アバンギャルド」、「前衛美術」といったカテゴリーとも又違うような印象を受ける。
「コンテンポラリー」の直訳は、「現代の、当代の」なのだが、「コンテンポラリーアート」
という言葉はいつの間にか一人歩きして、一つのカテゴリーを作っているように思える。
今現在、制作し活躍している作家達を「現代作家」としてもそれで生み出される要素を直に「現代美術」としてしまうのは多少安易かもしれない。
戦後以後、ドイツで4年に一度行われる「ドクメンタ」や「ベネチアビエンナーレ」等、国際展での在り方はその時代の「現代美術」の一つの定義例とも言えるが、そこで展覧会を企画するキュレーターの質によっても大きく左右される。

「アートシーン」とは、その時代の舞台の在り様を指しての事なのであるが、幾分エンターテイメント性を含んでいるように思える。
過去の美術と一線を画した、一般の大衆にインパクトをもたらすある種の手段である、
「シーン造り」の為の作品群が巨大化され、「現代美術」のある面を担っているとも言えなくも無いのではないか。「メッセ」の存在はいわゆる商業ベースでのアートシーンを提示しているがこれも重要な展覧会なのであって、また「モード」にも大きく左右される世界でもある。
「コンセプチュアルアート」についての定義は、「概念の芸術」とでもなるのだろうが、作品そのものに何かを表現させる美術に対し、アイデア、発想、概念についてより重点を置く美術なのであるが、いざ「説明せよ」と問われたら意外と焦点の定まらない分野でもある。多少乱暴かもしれないが「では、コンセプトの無い作品を示せ」と言われたら、その答えは相当難しい。「コンセプトの無い絵画など白知の絵画だ」とゲルハルト、リヒターが述べているように、目の前に存在している作品は、何かしらのコンセプトに基付いている。
過去からの芸術作品にも、コンセプトの面白さや、発想の意外性も極立っている作品も存在する事を思えば、現代行われている「コンセプチュアルアート」イコール「現代美術」という公式も成り立たなくなるのかもしれないが、50~60年代に発生した「コンセプチュアルアート」と言う言葉の示す世界は、一つの動きであったのかもしれない。

「ヨゼフ、ボイス」の存在はドイツのみならず世界の「アートシーン」に大きな爪跡を残した、と言っても彼を始め多くの若い作家達が、「コンセプト」そのものに新たなる表現を見出そうとしていたのは確かだ。シュタイナーやシラーなど、ある思想的、哲学的背景を持つ表現形式であっても観る側にそれを要求する事はまた別問題で、即ち同レベルの思考を持たなくても作品を理解する事は出来るはずである。
目下、様々に発展し拡大化した美術の在り方も、まだまだ現在進行形なのであって、発展の余地は存分にあると思っている。
いかな手段を用いたとしても、それは何かを表現する「手段」に過ぎないのであって、各作家のテーマや、美術に携わるスピリットはより心的なものである。

「ドイツ表現主義」という動きも過去のあるモードの一つであったのであって、マーカスリュペルツや、ペンク、インメンドルフなど、画廊主ミヒャエルベルナー(ケルン)の発掘し、一世を風靡した作家達は長年アカデミーの教授になったが、もはやその作品は過去の遺物にも観える。「オプアート」もフルクサス同様、アートの一派であり、もはやその名も死語のようである。
「ゲルハルトリヒター」の偉業とその存在は今現在もやはり最大である。
名、実、技術や完成度の高さなどは他の追従を許さず、これから数十年は匹敵する人物は出ないと思っている。個人的には余り好きではない上、彼のどれだけのものを理解出来ているかは別にして、「絵画」自体の持つ可能性と方向性をあらゆる角度から再現し、認識した作家だと思っている。「画家、芸術家」というよりもより頭脳派、技術派、研究者という印象が強い。10代から引き続いている莫大な仕事量と質を観るにつけ彼の美術への飽くなき探究心と情熱を認めざるを得ない。彼はまだまだ現在進行形である。

目下活躍している作家達を例に挙げると、画家ネオ、ラオホ、やダニエルリヒター、リュックタイマンス(どうも平面作家に眼が行ってしまうが、)を始め、旧東ドイツ出身の作家達も一つのブームを形成しつつある。
全体的によりテーマ性や、一種物語性の強い作品が多い。またイラストっぽい、より「軽快さ」みたいな物を含んだ作品もより浸透し易いようである。
ただこれも一種のモードなのであって、やがて新たなモードが発生すると思っている。

今現在、再び平面作品が見直され発表する作家達も増えてきている。
インスタレーションやオブジェ、立体作品といった区分け自体もナンセンスな事なのかも知れないが、発表する時点でやはり「傾向」は付き物である。

先に述べた、4年に一度、カッセルで開催される「ドクメンタ」や、ベネチアビエンナーレ等の国際展は、一時代のアートのあり方を掲示する重要な意味を持ち、その時点での最
も重要なアーティストの発表の場である。
1997年に、パリ国立美術館キュレーターのカタリーナ、デイビットの企画による、
「ドクメンタⅩ」は、インスタレーション一辺倒であった記憶がある。同時期に開かれた
ベネチアビエンナーレもしかり、平面作品の存在価値は失われたような印象が今でも残っている。
むしろ作品の中に、鑑賞者を参加させ、よりインパクトやエンターテイメント性の強い傾向があった。2002年に開かれたドクメンタであっても、全体的に余り印象深い作品は
無い。セプテンバーイレブン(9月11日の世界貿易センタービル破壊)の一時期、ドイツ国内の経済情勢が最悪の事態を迎え、長引いた不況により一層深刻な状態をもたらした。
ドクメンタを始め、「アートシーン」を支える経済的なバックグラウンドの状態が直に展覧会の質を決定するかの様な印象を覚えている。

個人的な意見を述べれば、ボイスやパイク、オットーピエーネや、イブクラインらの活躍した60年代~80年代の現代美術のあり方についての激しい動向があった当時が、ドイツ現代美術の最盛期であり、ドクメンタの存在価値も強かった。反面、現代のアート全体が
余り大きなエネルギーや、躍動を持たないと思っている。やがてドクメンタ自体もその存在価値が薄くなり、やがて過去の国際展になるような気配すら抱いている。

 

では、何故今、平面作品に平面作品に携わるのかと言う問いを受ける。
この質問は日本に多く、ヨーロッパでは余り受けない。
むしろ平面であっても、立体、インスタレーションであっても、それは目的地に到達する
為に、車を利用するか電車を利用するかと言った一つの表現手段の違いであって、その
選択は各作家次第である。間違っても「平面イコール過去」とはならない。
ただ平面を使ってどの様に表現するかによって、受ける印象は大きく変わってくるとは思うが。それから、ドイツ美術にあっては、平面と立体は大きく分けられ、混同されるケースは、稀と言ってよい程無い。つまり、立体的平面、平面的立体は存在せず、この事は、
概念や定義を重視するドイツ人ならではのものであろうか。
ラウシェンバーグ、ジュリアンシュナーベルを始め、アメリカンアートとは明らかに一線
を画している。キャンバスと言う平面に取り組むの際、キャンバスの縁の面に筆を加えると言う事は、もはや立体なのであり、これは平面を否定するに等しい。

 

自分が平面に携わるのは、自分に一番適した表現手段だと思っているからだ。
これは各作家の気質や、制作についての精神的な面からも決定されうる。
違う観点から「平面」を考えれば、まずヨーロッパには素晴らしい絵画の伝統がある。
それはともかく、万人に用意できるキャンバスと言う媒体にある手段を見出そうとする際
思う以上に上手くいかないケースが多い。
むしろキャンバスに絵の具といった古今問わず存在し、過去から使用され尽くしてきた材料を使いこなす為にのみ数年、場合によっては数十年を必要とするケースがある。
これはバイオリンやピアノを奏でる事にも通じうる「技術的な奥の深さ」がやはりあるからだ。いかにアイデアが面白く、コンセプトが斬新であっても平面に描かれた世界は否応無しに実力のレベルを暴露する。
平面作家には日々の練習やある一定レベルまでの鍛錬がやはり要求され、それを持たない
作家はやはり続かない。これは残酷なまでに事実である。
自分に置き換えて見た場合、ある一種の制限された世界が与えられた方がより自由を得られると思う事もあり平面を続けている。
具体的なモチーフ描写を選ぶのもその辺りに理由がある。

 

「何故具象なのか」と言う問いに対する答えは、より気質にあっていると思う事もあり、
具体的な対象物をリアリスティックに描写する方法を通じて、より感覚的な世界を表現出来ると思っている。ただその扱い方によって受ける印象が大きく変わって来、どちらかと言えばコンテンポラリー(現代アート)な分野で発表して行きたいので、構図やアイデア
色彩には注意を払わなくてはいけない。リアルスティックな描写を通じて表現された世界は、より自分の過去の記憶や幼少の頃受けた視界にシンクロされる。何も難しい事ではなく自分の内面から出てくる世界でしか、長時間を使って、絵として再現出来ないと思っている。その手段を用いる事でより、深く内面的な世界に入って行けると思っている。